にんげんドキュメント 糸数民宿のおじー

海人とーちゃん

2010年01月26日 18:35

まず最初にNHK "にんげんドキュメント" のテーマ曲 黄昏のワルツでも聴きながら読んで下さい。

私がまだ小学生の頃 三日に一度だけ帰ってくる 父にあうのが楽しみだった。
うす暗い船底の機関場という舞台裏で、いつも汗と油にまみれ、
乗客と物資を無事に久米島まで届ける。白瀬丸の船員だった父は 
ごつい体格と大きな背中に,機械の油が染み付いたグレーの作業着姿で
それは我々息子たちにとって尊敬する偉大なヒーローであった。

父は子供たちの手土産を忘れたことはなかった。
それは那覇で買った ふわふわのパンや餅などのお菓子で、
当時の久米島では手に入らない美味しいものだった。
土産を渡す時の父の右手は親指と小指の二本だけだった。
いつも物静かで笑顔の父からは過去にどんなにつらいことがあったのか
知るよし も無い。子供たちはただ無邪気に那覇のパンをほおばるだけだった。

父が若い頃 精米所に働いていた時に脱穀機で指を失うという
事故にあったらしい。ちょうど田んぼで農作業をしていた母親は、
担架で運ばれていく血まみれの男を 目撃。
近くで見てみるとそれが自分の夫であると分かった時は
どんなにショックだった ことか。
当時、島には十分な医療設備などはなく 父もきっと苦しい思いをしたに
違いない。

それから、「みどり丸沈没」 という不幸な事故にも遭っている。  
1963年8月17日 那覇から久米島に向け出港した客船みどり丸が
沈没し100人以上が亡くなるという沖縄の歴史に残る大惨事であった。
当時 船底の機関場でいつものように作業をしていた父はいつもとは
違う大きな 揺れを感じた。そして船体が大きく横に45度以上傾た。
まさか船が沈没するとは思ってない父は機関場に残り なんとか自分の
任務を果 たそうと努力した。しかし次の瞬間、機械がドタドタと倒れはじめた。
緊急事態と判断した父はやむ なく機関場を離れることを決心。
ドアから押し寄せる洪水のような海水と荷物、
襲いかかるように倒れてくる機械、
そして次の瞬間、何とその機械が父の顔面に直撃。
意識もうろうとなりながらも、その中からなんとか
奇跡的に這い上がって脱出。

海面では人々が我先にと小さな救命浮き輪に群がった。
父も何とか浮き輪につか まることができた。
しかし、ほっとするのもつかの間だった。
近くで一人の乗客が溺れかかっていた。
船乗りとして、最後まで乗客の安全を第一に考える父は
やむなく浮き輪を手放し、その乗客に自分の場所をゆずった。
それから自力で泳ぎつづける父。しかしそこは潮の流れが速く、
父はどんどん遠 くへ流されていった。
船は大きく傾き浸水の勢いが早かったためSOSを発信することも
できずに沈没した。そのため救助船が駆けつけた時は
事故が起こってからすでに5時間以上も経過していた。
港では安否を気遣う家族らが押し寄せた。

那覇の泊港に集まる家族や関係者ら 写真は沖縄県公文書館公式サイトから転載

それから10数時間が経過。あたりはすっかり暗くなってしまった。
しかしまだ父が救助されたという連絡が入ってこない。
もうダメかとあきらめか けていた頃、遂に救助船のサーチライトが
父の姿を発見!
ひとりまっ暗な海をさまよっていた父は
その時いったいどんな心境だったのだろうか。

父は我々息子たちに そのことを詳しく話すことはなかった。
そして父の苦労を知らない子供たちは 三日に一度帰ってくる
父とお土産を ただ無邪気に待つだけだった。

そんなある日、父は大きな箱の土産をもってやってきた。
開けてみるとそれは何 と エンジン付の高価な模型飛行機だった。


当時の糸数家は決して裕福ではなかった。トタン屋根の小さな家は
夏はサウナ のように暑く、冬は床下や壁から
すき間風がピューピューと入ってきた。
身分不相応な買い物だったということは言うまでもない。
我々息子たちも子供な がらにそれがどんなに高価なものであるのかは
すぐに分かった。
それ以来 その飛行機は兄と私と弟の3人の宝物だった。
いつもは2段ベッドの下 に隠し 時々取り出しては、
大空高く飛んでいる姿を想像するのであった。
あまりにも大切なものだったため、
結局一度も外で飛ばすことはなかった。

いつしか父も船を降り民宿業に専念するようになった。
糸数民宿にはなぜか個性的(変)なお客さんが多かったが
父はどんなお客さんに 対しても親切で文句や悪口を言うことは
決してなかった。
糸数民宿のオジーという誰からも愛されるキャラクターであった。

*****************

2009年12月2日 いつものように会社から帰ってくると
電話にメッセージが入って いた。
父が亡くなったという知らせであった。
翌朝、ロスから羽田経由で沖縄本島に向い、その次の日の朝、
飛行機で久米島に 着いた。
車から降り、いそいで玄関を入ると,
ちょうど出棺が始まるところだった。
間に合った。何とか最後に父の顔を見ることができた。
その姿はまるで笑みを浮かべているかのように穏やかな表情だった。
冷たくなった父の顔や腕に触れてみると
数々の思い出がよみがえってきた。
昔 船乗りだった頃の父、
兄弟3人と父の4人で行った沖縄本島旅行。。。。
そして一度も飛ぶことがなかったあの模型飛行機。

他人との争いごとをこのまず、また悪口を言うことも決してなかった父。
我々子供たちに一番大切なやさしさを教えてくれた父。

そしてあの飛行機は
兄と私と弟 3人の心のなかで
いつまでも
空高く飛んでいます。

ありがとう。父さん。

偉大だった父の冥福を心より祈りたい。


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